老北京の胡同(フ-トン:北京の細い路地)の起源は、13世紀頃、元の時代までさかのぼる。関連資料によると、その頃、大都(当時の北京の呼び名)には29本の胡同があったということである。その後、時代の変遷につれて胡同の名称は様々に変わり、現代まで同じ名前で呼ばれているケースは非常に少ないが、今回ご紹介するのは、その中の1つ、北京で最も古い胡同―「磚塔(zhuan ta)胡同」である。
磚塔胡同の名前は、その東口に聳え立つ「万松老人塔」から名付けられた。元代の有名な戯曲作家である李好古が著した「沙門島張生煮海」という雑劇(元代に発展た戯曲形式の1つ)が、この「万松老人塔」に言及していることから、磚塔胡同が北京で最も古い胡同であることが裏付けられている。 そして、「万松老人塔」といえば、万松老人高僧をご紹介しなくてはならない。1215年、モンゴル軍が金中都(当時の北京)に侵攻した。契丹族出身の政治家である大臣・耶律楚材(やりつそざい)は金中都で万松老人高僧と出会い、彼に師事した。耶律楚材は博学で、チンギスハンからも重んじられていたことから、西域(古代、中国西方にある国々を呼んだ総称)へ連れて行かれることになった。出発する前、耶律楚材は万松老人高僧から「以儒治国、以佛治心(儒家思想で国を治め、仏教で心を治める)」の8文字を得て、彼の人生のモットーにした。1246年、万松老人が亡くなり、西四路口に聳え立つ塔の底に埋葬された。乾隆18年(1753年)、当初の7階建てから9階建てへとさらに高く改修された。また、中華民国16年(1927年)に再度修復され、東側の扉を開くとともに「万松老人塔」と命名された。
1923年、中国の有名な小説家であり、思想家でもある魯迅が磚塔胡同に住居を移した。彼の代表作である「祝福」、「酒楼」、「幸福な家庭」、「石鹸」などの文学作品はここで完成し、発表された。そして20年後、魯迅から「中国の鴛鴦蝴蝶派の代表的な作家の1人」と評価された近代小説家の張恨水もここに移り住み、「春明外史」、「金粉世家」、「啼笑姻縁」など数多くの恋愛小説を発表した。
また、長さが800余メートルに達するこの胡同の中で、もう1つの史跡が目に入った。それはこの建築物である。歴史資料には、昔、ここはお寺だったとしか記載されていない。現在では、一般の市民の住宅になり、炊煙が立ち上がっている。
今回は「北京胡同のルーツ」とも言われる、最古の胡同――磚塔胡同だった。
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