太廟は明清時代の皇帝が祖先を祭った家廟である。1420年、明の永楽帝の十八年に建てられて総面積は200ムーである。「天を敬って祖を法する」という伝統的な礼儀制度によって建築されたのである。天井及び廊の柱には赤い金製の花が貼られ、とても精細で、装飾も晴れやかである。
太廟は皇帝が祖先を祭る場所である。正殿の両側に両脇の殿が15軒ある。東の脇殿に歴代の功績がある皇族の位牌を祭っている。西の脇殿に功績がある異姓大臣の位牌を祭っている。正殿の後ろの中殿と後殿は黄色の瑠璃瓦に覆われる。中殿は寝殿という。後殿は祧廟という。そのほか、神庫、神チュウ、宰牲亭、治畜房などの建物もある。太廟は古柏で知られて、樹齢が数百年にも達して、様々な形を呈している。とても勢いがある。辛亥革命後、太廟は清政府に属されたが、1924年、和平公園に改築され、1950年、今の労働人民文化宮に改名された。1988年1月、全国重点保護単位と指定された。太廟の前殿は三大殿の主殿であり、皇帝が大きな祭りを行ったところである。前殿は明代に設立され始めた。明末清初に壊された後、真中の三軒と殿の柱だけが残された。順治年間に正殿を立ち直した後、正殿が十一軒、奥行きが四軒、二重ひさしと脊の並べ、殿の額に漢字と満州字で「太廟」と言う字が書かれている。殿の外の三重台基は漢白玉石の欄干に囲まれている。月台の御道の正面に竜文石、獅子紋石、海獣石が順に刻まれている。殿内の梁が沈香木で作らて、ほかは金糸楡木で作られる。地面に金のレンガが敷かれてる。天井及び四つの柱が純金の葉に覆われてる。殿の内に木製の金漆で刷られてるお神様の座が祭られて、帝の座に竜が刻まれて、後の座に鳳が刻まれている。座の前に供物、香炉や銅炉などが並べている。両脇に皇族と功績のある大臣の位牌が祭れている。中殿は横が九軒、奥行きが四軒である。それは石製の露台を通して前殿と繋いでいる。殿外の石段の下の左右の方にそれぞれ二つの灯が飾られている。殿中の真ん中に太祖が祭られ、別の各祖が両脇の室に祭られている。神龛の外に皇帝と皇后の椅子もある。その数は位牌の数と同じである。明時代は元配偶だけが祭られて、清時代は後妻も祭られるようになった。中殿とも呼ばれて皇帝の祖先の位牌を祭る場所である。明の永楽帝の時に創建されて黄色の瑠璃瓦に覆われて、一重のひさしとヒップルーフの形式である。それは横が九軒「長さ62.31メートル」、奥行きが四軒「幅20.54メートル」で、中にある祖先の位牌が同じ堂の違う室に祭られてる。各両脇の室にイスや香案やベットや布団や枕などがあって、位牌が布団の上において、祖先の寝起きを象徴している。清の末にヌルハチ、皇太極、福臨、玄耀、胤禛、弘歴など十一代の皇帝と皇后の位牌を祭った。毎度の祭典の前日、位牌が享殿に移され、終わったら元の場所に戻した。後殿は赤い塀に囲まれている。ドアが五つあります。殿が九軒あります。殿外の石段の上に竜紋石が刻まれている。殿内に清の建国の前に追封された皇帝と皇后の位牌が祭られて祧殿とも呼ばれる。祭祀用品を置いたところは今もう生活化になった。
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