帽子路地は北京市東城区の北西部に位置し、東が南銅鑼太鼓巷から、西が地安門外大街まで。明の時代では、「梓潼廟文昌の宮」と称し、清の時代より「帽子路地」と称することになった。文昌の宮は文昌帝を奉る場所で、文昌帝は即ち文曲星で、神話伝説で文運を管掌する仙人である。現在、文昌の宮の跡地に建てられているのは「帽子路地小学」である。帽子路地9号と11号は「可園」で、北京で最も代表的な私家庭園の一つである。35号と37号はラストエンプレス「婉容」の旧居である。婉容姫を始め、この路地で多くの有名人が住んでいた。例えば、明の時代の洪承畴将軍・北洋軍閥馮国璋氏とか。
概説帽子路地は北京市現今十の有名路地の一つで、第四位にある。帽子路地は旧北京城区鼓楼と地安門の間に東西に位置している。全長585メートル、幅7メートル。帽子路地には普段の古い路地の物寂しさが呈していない。路地は両端がにぎやかな繁華街につながり、路地内に時々乗用車が梭のように行き交い、濃密な並木道で、流行りのスポーツカーと古い三輪車が赤い門&灰色壁の間に走り交い、かすかに帽子路地の非凡な地位を物語っている。昔を思い出すと、ラストエンペラーがここから16才の花嫁を極めて盛大に迎えた際、帽子路地はなんと素晴らしい風景だっただろう!帽子路地で生まれ育ての婉容姫は、不幸にも「ラストエンプレス」になったが、彼女の自宅がなんて素晴らしく飾られて輝いただろう。約一世紀が経た今にも、彼女の実家故郷は依然としてこの路地の名場所である。道端の将棋対戦は、路地中の永遠な名風景。硝煙のない戦場、ここがは殺し合いがなく、笑いと無限の楽しさばかり!路地にある中庭には、いつも何才か知らない一本の古い木があり、ナツメの木だったり、コノテガシワの木だったり、槐樹の木だったり……日光猛烈な夏の日、団扇を揺らす老人達は日陰に座って雑談で暇つぶしをし、子供達は門の外で遊び、生活はこの瞬間で静止画像となり、幸せってこのときの雑談であろう!帽子路地は東城区交道口地区に位置している。帽子路地に既存する保存状態のよい四合院は:帽子路地5号・帽子路地9号(可園)・帽子路地11号(文煜氏宅)・帽子路地13号(馮国璋氏旧居)・帽子路地21号(梓潼廟文昌の宮遺跡)・帽子路地37号(婉容姫旧居)・帽子路地45号(清の時代の提督役所・民国保安隊の本部)等がある。帽子路地の一端は、有名な南銅鑼太鼓巷とクロスし、もうちょっと行ったところに著名な菊児路地、その時代の軍機長官・大学士の栄禄氏の住宅がそこにある。もう一端には有名な煙袋路地があり、北京の古い息を体験したい人には、帽子路地がもってこい選択肢だよう。詳細帽子路地は東に南銅鑼太鼓巷、西に北京の竜の脈の地安門中軸線につながり、北京で幸運にも生き残った25の路地保護区の中で非常に有名な路地である。 百年歴史のある帽子路地は年の浸食を経験していたにもかかわらず、依然として従来の風貌が保っている。登られたことがある石獅子がよい状態のまま11号門の前に置かれていて、その時代の子供達の騒騒しさを聞こえなくなっているだけだ。実に各庭は長い歴史を持っている。路地の一番東端に近い5号の庭は、赤い門にダーククレー瓦、典型的な清朝の中庭で、ドアが常にきちんと閉じている;前へ行ったところの7号・9号の可園はかつて清朝末期大学士文煜氏の私家ガーデンで、現在、遺産保護対象にされている(50年代、北朝鮮大使館になったことがある);11号は文煜氏の住宅、門外の二つ保存状態のよい馬登り石には、当時の庭の主人が出掛ける時の威風堂々たる様子を想像させられる;13号院庭の門の入ったところは住宅に改造され、隣に門を開けていてしまって、外からは庭内に一体にどれ程豪華なものがわからない。民国時代、北洋政府の大統領馮国璋氏はやむを得ず下野後、ここで住み、一年後この庭で病死した。庭には今でも民国風の建物が残っている。33号・35号は婉容姫の自家の庭で、35号が4つの中庭あり、門が大きくないが、昔の尊貴の身分を隠しきれない。院には奇石に緑を争い、庭に入った途端あたかも蘇州の園林を歩き入った風景ばかりだ。ラストエンプレス婉容女士は嫁入り前にこの庭で生活し、彼女は人生の中で最高の時間をここで過したに間違いないだろう。45号院はかつて清朝の提督役所で、解放後、中央実験話劇院に改造し、庭に社員寮を建てて、前世紀80年代に建てたタワーが、周りの四合院と極めて不調和に見えている。当時の提督役所は既に跡形もなく消え去っていた。路地南側にある「北大」小東門から引越ししてきた「ソコ」という名のバーは、門が格段に人目を引き、店が四合院の中庭の建築風を借りて作り、昼間の日当たりが非常に良い。夜間、ガラス貼り屋根を透し、明るい月が頭上にぶら下がっている。室内は旧式カメラや沢山の古い写真雑誌が並んでいて、壁に主人の写真作品を飾られ、主人が写真愛好家であることを見てわかる。夜になると、バーの客の多くは若者で、中に外国人もいて、外来品のバーと古い路地この2つの異なった文化的背景が、ここで平和共存している。 路地の西には什刹海後門の橋で、隣の火神寺が帽子路地と通りを1本隔て、右曲ると高いタワーが目の前に建ってある。地安門大街は沢山の車と人で賑やかで、店が立ち並び、忙しくて騒々しくて、路地と強烈なコントラストを形成している。後門橋に立って見上げると、ささやかな波にきらめく湖、岸の柳が美しく踊っているのを見えてくる。火神寺のお線香がかつて盛んでいるとき、数多くの男女信者が敬虔に焼香して仏像に礼拝しにやってきていた。北京人の根で、古い文明をもつ北京の魂である古風で質朴な帽子路地を振り返って見ると、将来の世代のために歴史の証人としてを残して、更なる100年を生きてほしい。四合院帽子路地45号 (元清朝提督役所・民国保安隊の本部)帽子路地に既存する四合院 帽子路地は東城区交道口地区に位置している。帽子路地に既存する保存状態のよい四合院は、帽子路地5号・帽子路地9号(可園)・帽子路地11号・帽子路地13号・帽子路地21号(梓潼廟文昌の宮遺跡)・帽子路地37号(婉容姫旧居)・帽子路地45号(清の時代の提督役所・民国保安隊の本部)等がある。文煜氏宅:帽子路地7-13号に位置し、五つの中庭が横並んでなった大邸宅で、敷地面積が合計11000平方メートル、広くて、慎重かつ正確なレイアウト、丘・池・亭が揃っていて、既存の私家邸宅の中で非常に稀である。この邸宅中の「可園」が国の重点遺産保護対象になっていて、他の四つの邸宅も保護範囲に入っている。文煜氏(?-1884)は清の時代の満洲正藍旗の人で、費莫氏、字が星岩、刑部侍郎・直隶霸昌道・四川按察使・江寧布政使・江蘇布政使・直隶布政使・山東巡撫・直隶総督等の要職を歴任、一度免職されて、同治三年(1864年)に再び起用され、福州将軍・刑部尚書・総管内務府大臣を経て、光緒七年に助手大学士に授けられ、光緒十年に武英殿大学士に昇進され、その後暫くして病死し、死後太子少保と授けられ、諡号「文達」。文煜氏死後、その邸宅は彼の子孫に北洋政府高官の馮国璋氏に売られ、日中戦争時期に傀儡軍司令官の張蘭峰氏の所有となった。解放後、その邸宅は幾つかの寮に分割され、その中9号・11号が一度北朝鮮大使館に使われたこともあった。可園:咸豊十一年(1861年)に建てられた。南北長約97メートル、東西幅約26メートル、面積約4畝ぐらいで、前後二つの中庭に分かれ、前庭の中心が池で、後庭の中心が築山で、各々が独立していて、東側にある長廊下で貫通されている。前後庭にはそれぞれのメイン部屋が真中に位置し、南向きで、西側にそれぞれ小屋があり、東側の長廊下と均衡をとっている。東南角にある正門から入ると、防壁の役割の築山があって、その上にコンパクトで精巧な六角亭が建てられてある。西へホールを潜って、西部屋の前を通って、水池の小さい石橋に立つ。水池の面積が小さいけど、異形にしていて、二本の支流が引かれてあり、一本が石橋の下を貫いて西壁で止り、もう一本が南の築山を貫いて六角亭の下に来て、岩と相俟って、天然泉の美しさが現れいる。前庭にあるメイン部屋は五部屋による「硬山式」建物で、空間が大くて、寝室と廊下もついてある。メイン部屋の東側の廊下を歩いてきって、緑竹挟みの斜めの道に沿って庭の中にやってくる。庭の中には山石がうねうねと曲がりくねっていて、半開半閉、松竹と相俟って、実に精巧。後庭のメイン部屋は五部屋による「硬山式」の寝室&廊下つき建物で、前出三部屋の「歇山抱厦式」である。東側の築山の上に三部屋による「歇山頂式」軒館があり、全園の最高処である。この建物は最も精巧で、山や石を抱え、一本の大きい槐の木が前にあって、廊下椅子で、ユニークな建物である。軒の下に石で浅いプールを作ってあり、雨のとき池に、無雨のときプールに、北地方の庭園での独特な処理方法である。可園の建物のすべては灰色筒瓦で、れんが壁がメインで、白い粉を塗っておらず、質朴なのである。パビリオン等はすべて赤い柱で、長廊下が緑柱である。梁に書いた蘇州式絵画は、箍の端や角材の心のキャップのみに飾られている。述べる価値があるのは、建物軒下にぶら下がっている楣のすべてに木彫りをしてあり、繊細複雑で、様々なトピックの松・竹・梅・蓮・ヒョウタン等は、通常のデザインより美しくエレガントなものである。全園には中軸線と正側の概念を明らかに存在し、洗練されたレイアウトで、精巧で上品、洗練された岩、池紆余曲折、貴重な松・槐の木・桑等古い木が数多くあって、全体的に保存状態がよいほうで、清朝後半の北京私家庭園の代表的な作品である。冯国璋故居:帽儿胡同11号。馮国璋氏旧居:帽子路地11号。馮国璋氏は清咸豊八年十二月四日(1859)に生まれ、民国八年(1919)に無くなった。字が華符、河北河間県の出身。袁世凱氏は中華民国臨時大統領になった後、馮氏は直隶都督兼民政長官を担任し、その後江蘇の督軍を担任したが、袁世凱氏の皇帝制を反対していた。1916年10月、国会に中華民国副大統領に選ばれた。1917年張勲復辟失敗後、馮氏は副大統領で代理大統領に就き、1918年に辞任した。旧居は元々大きい清朝建物風の大庭園だったが、現在分割されている。西が住宅、東が雑用係部屋、中がガーデン、全体的に広大な建物を構成している。既存の11号は、元住宅のメインで、南向きで、五つの中庭がある。正門が一部屋で、両サイドに八字壁・馬登り石がある。清の時代の提督役所・民国保安隊の本部:帽子路地45号。 即ち歩兵の統率者役所、俗称の九門提督で、京師の治安を管掌しながら、一部の刑名事務の補佐もやっていた。婉容姫旧居:帽子路地35号・37号。溥儀の妻婉容姫結婚前の住所。婉容姫の曾祖父の郭布羅長順氏が建てたもの。元々は普通の住宅。婉容が「皇后」になった後、父が三等承恩公に、当宅も承恩公府に昇格された。「後邸」となって、拡大建設された。西のほうが四つの中庭。東のほうが三つの中庭。後庭には築山の石・水池、東に祖泉会堂がある。西のほうのメイン部屋は婉容姫の部屋。メイン部屋の5つ部屋の仕切板などには、細い糸を刻んでいた。東庭の花部屋の内装は基本的に原状に保存されていて、真正面の壁に巨大なミラーを埋め込まれており、婉容姫結婚前に練習用という説もある。梓潼廟文昌の宮(遺跡):帽子路地21号。文昌帝君は文昌星と梓潼帝君を一つになった教育の神様である。文昌は元々古星官の名前で、闘魁(魁星)中の上の六星の総称である。周・漢・晋以来、文昌を郊祀の嫁にした。梓潼帝君は元々雷の神様で、宋朝・元朝の道士は、玉皇大帝が梓潼帝君に文昌府と人間の禄籍を管掌するように命じたと言っていた。それで、文昌星と梓潼帝君はともに功名禄位を主宰する神様として道教に崇められていたが、元仁宗延祐三年(1316)に両者を「補元開化文昌司禄宏仁帝君」という名に合称し、文昌帝君と称することになった。文昌廟は元順帝至正年の間に建てられ、清朝嘉慶六年(1801)に大修理されたことがあった。文昌廟には山門・鐘楼・魁光殿・桂香殿(祭文昌帝君)・御碑亭があり;関帝殿・富の神殿・大悲殿など、全廟の大小殿堂楼室が合計89部屋ある。每年の春秋に二回祭りがあり(春祭りが二月三日、文昌帝君の誕生日だという説がある)、規模と儀式が関帝廟に似ている。昔の文昌廟に道士しかいなかったが、僧侶を中心にするように変わった。廟内の僧侶は佛教華厳宗(賢首宗) に属するものだ。辛亥革命後、文昌廟の祭典が停止した。廟の跡地の前半部分はいま帽子路地小学になっている。《明御制護国文昌帝君廟旧碑》は依然として庭に立っているが、東城区の遺産保護対象になっている。帽子路地5号:東城区の遺産保護対象。当宅は四進式四合院だ。当庭は構造的に厳格で、完全なレイアウトで、原状も比較的によく保存されていて、既存の四合院の中で割りとよい状態のほうである。正門が一間で、門の奥にスクリーンウォールがあり、左に四つの屏門と、北向きの部屋が6部屋があって、「硬山式」瓦葺の建物だ。 北向きの部屋に面しているのは第二の門で、左右に各一個の石獅子があり、灰色筒瓦の建物だ。庭には通りの間三つと、前廊下があり、東西翼の部屋各3間、東西物置部屋各5間、軒縁に蘇州式絵画を描いてある。部屋の門には清朝スタイルのスカートを留保している。通りの間の後にある小道がメイン部屋の庭の第二の門につながり、第二の門両サイドに生き生きとした小さい石獅子がある。院には回廊があって、回廊の壁にある錦窓が非常によい状態である。メイン部屋が3間で、東西翼の部屋各3間で、前庭と同じスタイルである。すべては「硬山式」瓦葺の建物で、最後の一列は後部屋である。新と旧、地味と洋風、伝統と現代、静かさとにぎやかさ……帽子路地の豊かな歴史に、限りなく思い浮かべさせられている。
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