頤和園は、もともとは1750年に清の6代皇帝、乾隆帝が母の還暦を祝って造営した庭園である。1860年に第二次アヘン戦争(アロー戦争)により破壊されていた庭園を、修復したのが西太后である。この際に、実質的な最大権力者である西太后は、創建時の乾隆帝の母思いの故事にならい、第11代皇帝の光緒帝の名のもとに西太后の隠居後の住居として建築させたばかりか、その莫大な修復費に北洋艦隊の増強費を流用したということで、この頤和園という庭園は、西太后の欲の深さを示す例えによく使われるとともに、清の滅亡を早めた原因の一つに指摘されている。因みに、第11代皇帝の光緒帝は、西太后の妹の子供である。
そんな歴史は色々な書物や小説で見てきている私であるが、頤和園に来たのはこれが2回目である。西太后が贅を尽くして建造した庭園を早速見てみよう。頤和園にはいくつか入口があるが、この入口は、新建宮門である。
新建宮門を入ってすぐのところに上の写真の碑楼が建てられていて、碑楼をくぐるとすぐに昆明湖が広がる。
頤和園は面積約290万㎡ある。東京ドームが46,755㎡であるから、東京ドーム62個分の広さということができる。これでは分かりづらいなら、あまり適切な例ではないかもしれないが皇居が1.42km2であるから、皇居がほぼ二つ入る広さということになる。相当に広いのである。したがって、頤和園の全部を回ると1日かかってしまうので、今日は頤和園の東の入口である新建宮門を入り、東岸を通って、長廊や仏香閣を回り、北宮門から帰るコースを想定している。
頤和園にある昆明湖である。昆明湖は頣和園2.9km2の4分の3を占める大きな湖で、杭州にある西湖を模して作られている。西湖を模したのは西太后ではなく、もともとの庭園を造った乾隆帝である。乾隆帝は清の絶頂期に皇帝となったので、性格は派手好みで、外征(他国への侵攻)、文化の振興(特に書を好んだ)等で、華やかな史実が残っており、書のコレクションの収拾などを目的に、たびたび江南地域(杭州、蘇州、紹興、揚州といった地域)にでかけていた。(行幸という。)中国での書家といえば王羲之であるが、王羲之が「蘭亭序」を書いた紹興の蘭亭には、当然のことながら乾隆帝の足跡が残っている。
江南行幸の中で印象深かった杭州の西湖を作りたいという乾隆帝の強い願いが、この昆明湖になったわけである。このように、頣和園の中には、至る所に中国江南地域風の味付けがなされている。
杭州の西湖を模して造られたことは前述の通りであるが、周りを低い山々に囲まれた風景は、確かに西湖で感じるような風情がある。西湖は面積が6.5km2、外周が15kmに対して、頤和園の昆明湖は面積が2.2km2、外周が6kmであるから、西湖ほどではないにせよ、実物の3分の1くらいの模倣庭園を造ってしまうのですから、中国皇帝の力の強さを感じる。
もっともこの原型を作った乾隆帝の時代は清が最盛期を迎えていたころで、こんなに広大な庭園を造っても清の財政は揺るがなかったのであるが、これを再建した西太后の時代は清が列強諸国に侵略されつつあり清の財政状態も極まっていたわけであるから、この頤和園の再建が清の滅亡を早めた一因だとする考えも納得できるものである。
昆明湖に浮かぶ南湖島と南湖島に東岸から架かる十七孔橋である。十七孔橋は長さ150mの石造り橋で17の穴が開いた形になっているのでその名がつけられている。大変優美な橋で、杭州西湖の白堤に架かる断橋がその原型である。断橋には一つの穴しかないし距離もずっと短いのであるが、十七孔橋はこれを伸ばし西湖よりも優れた景色を作ろうとした乾隆帝の思いのかも知れない。
南湖島は昆明湖にある小島で、ここから昆明湖越しに見る仏香閣は見事なものがある。
頤和園の地図を見ると、新宮門から文昌閣まで昆明湖の東岸は何もない殺風景なところに見えがちであるが、この東岸は昆明湖に沿った風光明媚な散歩道である。岸に沿って柳が植えられているのは杭州の西湖と同様である。この東岸の散歩道は、西湖で言えば柳浪聞鶯あたりを模したものだろう
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