「東廟」隆福寺と並び称されたのは、「西廟」護国寺である。護国寺は、もとの名を崇国寺といい、その淵源は元の時代にさかのぼる。
この寺の由来については諸説があり、元の宰相であった托克托の邸宅であったとも言われ、また明初の功臣姚広孝にこの地が賜られたとも言う。常氏の『老北京的風俗』と趙氏の『老北京廟会』においても、この説が紹介され、護国寺の由来とされている。しかし、この説には問題もある。
何故なら、実際には崇国北寺は寺としてずっと機能していたようであり、突如として功臣の邸宅になったり、また寺となったりすることは不自然だからである。これについては『燕都叢考』において詳しい議論が紹介されている。
おそらく、護国寺が托克托の故宅であるとの伝承は誤りであると思われる。元時の崇国北寺から連綿と寺院が続いてきたとの見解が正しかろう。それは、かつて寺院の中に存在した多くの石碑群が、元明間でほとんど断絶していないことからも推察される。 その後崇国寺は、明の宣徳年間には「大隆善寺」との号を賜り、その後成化年間には、さらに「護国」の称を加えられた。これ以後「大隆善護国寺」となったが、一般にはこの「護国寺」の名称が知られている。また、東廟隆福寺に対応する形で、西廟とも呼ばれる。
清の康煕61年(1721)に、護国寺は重修され、伽藍は大幅に拡張された。またこのころより密教系の喇嘛寺院となっていく。東廟と同様に、規模の大きい寺で、多くの建物があった。山門・金剛殿・天王殿・延寿殿・崇寿殿・千仏殿・護法殿・勤課殿・菩薩楼などがあり、また密教様式の塔もあった。また多くの石碑が存在したようであり、趙孟頫の筆になる「皇慶元年崇教大師演公碑」などが存していた。
廟会において、ありとあらゆる商品が売られたのは、隆福寺の場合と全く同様である。護国寺の廟会は、旧暦の七・八の逢日であった。民国11年(1922)よりは、陽暦の七・八日に改められたという。
廟会における攤子は、それぞれ出店の場所が決まっていたようである。弥勒殿は骨董や工芸品、それに刀剣の類、天王殿は玉器や装飾品といった形である。殿の外では、また多くの手工芸品があり、特に扇子が著名であった。殿の廊下では、書画、また古書が売られ、文人墨客が群れを成したという。碑亭の前では「売唱本的」がおり、竹版などを鳴らし、歌いつつ本を売ったという。
しかしながら、護国寺の廟会は、隆福寺に比しては若干規模の面で劣るものであったらしい。また、寺院としての護国寺は、清の光緒年間に発生した大火などを経て、衰微していったようである。それでも廟会の方は依然として続き、民国の時期にもかなりの規模であったという。
現在の護国寺は、その地名に名を留めているが、寺院としては全く機能していない。抗日戦争の時期より衰退に向かった廟会も、当然行われてはいない。
また繁栄を誇った大伽藍の大半も現在は存していない。僅かに金剛殿など、ごく一部の建物を残すのみである。建築物の多くは工場または民家に転用されている。金剛殿だけは、一応文物としての扱いを受けて保護されているが、他の建物は全く注意を払われてはいない。
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