東交民巷は13世紀の世末に誕生した。マルカポールが中国訪問する時期だった。当時、陽子江南方面の地域は食糧が大運河を通し、元の都まで運送している。陸揚げの場所は東交民巷だった。巷の別称なる「江米巷」はそれに因んだのだ。町は北京の東都区にある一本の胡同である。
天安門広場の東町から崇文門の内町まで東西に通っている。全長3キロメートルで、北京では一番長い胡同だ。北京では一番長い胡同である。
東交民巷は旧中国の時が各国の大使館が集まる地区だった。1860年に第二次のアヘン戦争で中国が敗戦し、清政府はイギリス、フランス、アメリカ、ロシアと「天津条約」を締結した。この条約の内容は公使の北京駐在だった。1861年3月に各国の公使は正式に北京へ入った。駐在先としては、英公使が東江米巷の淳親王府、仏公使は安郡王府、アメリカ公使は米人Dr S.SWilliamが所有している東江米巷の私宅、ロシア公使は清の始まりごろに建築した東正教の教会堂であるロシア館に入居。その後、各国の公使は東交民巷の辺りで自分の別館を選んだ。1900年義和団運動前に、ここにある大使館はフランス、日本、アメリカ、ドイツ、ビリシャー、オランダ等だった。
義和団運動(北清事変)が発生し、ここは大使館の集約地として攻撃の重点となり、その時期、「面を食べる時、ジャムを入れず、鉄砲で西什庫を攻撃する、鉄砲で交民巷を攻撃する」という童謡が流されている。「鉄砲で西什庫を攻撃する」とは北京西皇城根の西什庫教会堂のことを指し、「鉄砲で交民巷を攻撃する」とは東交民巷のことを言う。1900年義和団の乱を納めた後、「辛丑条約(北京議定書)」により、東江米巷をLegation Streetつまり、大使館の街へ改名した。その後、ここでイギリスのHSBC、イギリスのChartered Bank、日本の横浜正金銀行、ドイツのTak Wah銀行、フランスのTaishin International Bank Trust Asset Management Departmentなどの外資銀行が相次ぎ開業し、旧フランス郵便局、病院などの施設が設置され、西洋式の建物が次々と現れた。辛亥革命が終わってから、この地域の洋館も元のまま保存されてきた。 東交民巷使館建築群は、北京で唯一残されてきた二十世紀初頭に建築された西洋風の建築群であり、帝国が中国を侵略した現存の証拠と愛国主義の教育基地でもある。
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