中国には天、地などの自然の神と祖先への崇敬を特に強調する伝統文化があるため、さまざまな神を祭る祭祀所が都市や農村のいたるところに設けられていた。北京市内にも城北に地の神を祭る地壇、城東に日の神を祭る日壇、城西に月の神を祭る月壇、そして城南に今回紹介する天壇がある。
故宮から東南に数km離れたところに、天の神を祭る巨大な廟がある。これが天壇である。初夏の1ヵ月、皇帝は毎年ここで天の神を祭り、五穀豊穣を祈った。天壇はその厳格な配置、独特の構造、美しい装飾によって、中国に現存するもっとも美しい建築群とされている。また、世界的にも知られており、アメリカ・フロリダ州のディズニーワールドでは、天壇の祈年殿を中国館のシンボルマークにしているほどである。
天壇は、故宮と同じく明の永楽18年(1420)に築かれた。その総面積は約270㎡で、故宮の4倍に当たる。中国では皇帝は「天子」すなわち天の息子と称していた。天壇が故宮よりはるかに広いのは、天の神の息子である以上、天を祭る場所、天壇が息子の住む宮殿より小さくてはならない、という配慮からである。
天壇の設計は、建物の配置から細部に至るまで、いずれも「天」を強調している。天壇の南に塀で囲まれた四角形の土地がある。これは「地」を象徴するもので、同じように、最北には「天」を象徴する半円形の土地がある。これは「天円地方(天は丸く、地は四角い)」の思想から来ている。「海漫大道」と呼ばれる長さ300m余りの参道を進むと、まず目に入るのが広い空と天のシンボル・祈年殿である。「海漫大道」の名は、昔の人が天壇に詣でて天の神を祭ることは天に上がることに等しいとし、その道程は当然果てしないものと考えて名づけたものである。確かに、この参道に沿って一歩一歩と祈年堂に近づくうち、自然と天に近づいているという神聖な緊張感が生まれてくる。
祈年殿は天壇の主要建築物で、建築学的にも絶妙な工夫が見られる。祈年殿のすべての重量は28本のクスノキの巨大な柱と、互いに組み合わさった木造部品によって支えられているが、この力学構造は絶妙かつ完璧である。これらの柱や升形には、いずれも象徴的な意味がある。「竜井柱」と呼ばれる中心の4本の柱は高さ19.2m。大人が二人がかりでようやく抱えることのできる四本柱は、1年の四季の象徴である。また、それを囲む中央の12本は1年の12ヵ月を、外側の12本は1日の12の時辰(時辰は昔の時間単位で、現在の2時間に相当)を象徴し、これらを合わせた28本の柱は天の28星宿を象徴する。祈年殿は1889年(清の光緒15年)に落雷による火災に見舞われたが、そのときに白檀の柱(クスノキは消失後の再建時から使用された)が焼け、そのかぐわしい香りが数里離れた場所にも漂い溢れたと言われている。あるフランス人建築家が天壇を見学後、高層ビルは天壇よりはるかに高いが、天壇のような尊大で奥深い感じはなく、祈年殿の芸術水準に達することができないと言ったが、それも無理もないことである。
天壇にはまた人々から絶賛されているものがある。回音壁である。回音壁は、天壇の皇穹宇を囲む円形の壁で、磨きレンガできている。壁の東西両端に立った2人が囁くと、その声がなめらかに磨き上げられたの向い側の壁面で拡散することなく反響し、電話で通話しているかのように耳元で相手の声を聞くことができる。天壇を訪れる多くの観光客は、これを試すことを楽しみの一つにしている。
天の神だけでなく、古代中国の皇帝は多くの神々を祭ってきた。その中には土地、水、農業、軍事、社会、宗教、市民、そして自分の祖先の位牌も含まれる。今日の天安門東側の労働人民文化宮は、明・清時代に皇帝が祖先を祭ったところで、天安門の西側にある中山公園の中には社稷壇があった。社稷壇は五穀豊穣を祈り、土地の神を祭るところである。
数千年に及ぶ中国の王朝時代に比べて、100年は長いのか、短いのか。権力を一手に握った皇帝が存在しなくなった今、庶民には立ち入ることができない場所であった皇室の施設も、北京市民がリクリエーションを楽しむ憩いの場になっている。自分が国の平和と五穀豊穣を祈った場所が公園となり、体を鍛える老人たちや本を読む若者たち、元気な子供たち、内外からの観光客で賑わうようになるとは、昔の皇帝たちも想像すらしなかっただろう。
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