白塔寺は、五大廟会の開かれた寺廟の中で、現在でも唯一、宗教施設としての機能を存している寺院である。
その位置は阜城門大街にあり、白塔寺とは通称である。優美なチベット密教風の白い塔が目立つことからこの称がある。正式には「妙応寺」という。
この寺はその淵源を遼代にまで遡る古刹であり、失火や重修により、度重なる変遷を経ている。
まず始めは遼の寿昌2年(1069)に釈迦如来の舎利塔として建造された。後にその塔は戦災により焼かれたが、元の世祖フビライの時、至元8年(1271)に修築された。塔の建築は至元16年(1279)まで続き、「大聖寿万安寺」と呼ばれた。明の天順元年(1457)には勅額を賜り、名を「妙応寺」とされた。清代にも度重なる改築を経ており、民国元年(1912)にも重修を蒙っている。『元史』には、幸大聖壽萬安寺、置旃檀佛像、命帝師及西僧作佛事坐靜二十會など、多くの皇帝が何度もこの寺に行幸したことが見てとれる。また多くの仏典がこの寺において印刷されるなど、元代において、この寺の地位は非常に高かった。
その地位にふさわしく、かつては大伽藍が形成されていたという。山門・鐘鼓楼・天王殿・三世仏殿・七世仏殿・配殿があり、中心に白塔が配されていた。このうち山門・鐘鼓楼などは現在破壊されて残っていない。また、他の建物も主に文化大革命のさなかに被害を被った。
白塔寺の廟会については、東西二廟と同様に大規模なものであったと言われる。廟会が行われたのは旧暦の逢四・五日であった。ただ、この地は西廟護国寺と近く、そのために共通の攤子が店を開き、似たような商品が売られていたという。それでもやはり独自色があり、白塔寺の廟会は、売られている食品の多彩さで知られていた。現在周りに食品市場が多いのは、この名残であろう。
さらに知られているのは、「説書」の芸人が多かったということである。数多くの著名な説書人が、塔院の西側の空き地でその芸を披露したという。『劉公案』『小五義』『楊家将』『呼家将』などの出し物が人気であった。これらの芸人たちは、1950年代までは活躍していたらしい。また、演武の芸人が多かったことも、その特色として挙げられる。さらに、ここには多くの占い師が店を出していた。人相見や卜算の「算命先生」が群れをなし、ありとあらゆる占いが可能であったという。
このような白塔寺の廟会も、1960年代以降、普通の商業活動に取って代わられ、廟会自体も行われなくなったという。
現在でも、白塔寺は一応寺院の機能を残したまま、存在している。ただ、どちらかというと観光的な要素が重視されているようである。それでも、かつての五大廟会の開かれた寺廟の中では、規模はかなり縮小しているとはいえ、いまだにその伽藍を存しているという意義はかなり大きなものがあると思われる。他の五大廟会跡地が零落をきわめているだけに、このまま保護が加えられることは望ましい。
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